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「リリー・オンコロジー・オン・キャンバス」は、がんと診断された方、およびそのご家族やご友人(20歳以上の方)を対象とした絵画・写真・絵手紙コンテストです。「がんとともに生きる」をテーマに、絵、写真、もしくは絵手紙とその想いをエッセイに表現してください。
ご応募いただいた作品をご紹介しています。あなたの心に響く1枚を探してみてください。
コンテストの最新情報などを随時投稿しています。LOCJの活動の模様をお届けします。
安藤 真央 さん
「あのね、お母さん、癌かもしれん」と、母からの電話を受け取ったのは、出張先でのことでした。実家から離れて働きに出て、家族の有難さを噛みしめていた時の知らせに私は涙が止まりませんでした。その後、一緒に行った病院での検査の結果は陽性。さらに涙が溢れました。
昔からずっと明るくて元気だった母の突然の病気に、家族一同、心底落ち込みました。心が追いつかないまま手術や治療の話が決まっていきます。父も兄も落ち込んだままで、家族の会話も減っていきました。
「お母さん、これから食事のことや生活習慣のこと、見直していこうと思う。癌について勉強して、同じように癌と闘う人達の力になりたい。だからあなたもやりたいことをやっていいからね」。手術を終えて、これからについて考えていた時のこと、母から伝えられた突然の言葉に私は衝撃を受けました。癌になって一番辛いのは、怖いのは、他でもなく母自身のはずです。それなのに、前を向いて微笑む母の力強い姿がそこにありました。私は母に、何が出来ていたでしょうか。落ち込んだ姿を見せていただけではないでしょうか。母は病気になってもしっかりと前を向いているのに。私は何ができるだろう、私にしか出来ないことがあるのではないか、そう考えた時にふと、「絵を描こう」と思いました。幼い頃から母がよく褒めてくれた、私の大好きな絵を描こう、と。
それから、母は癌についてのあらゆる本を読んで勉強し、それを実践しながら毎日笑顔で暮らしています。癌が見つかって四ヶ月。再発の可能性が無いわけではありません。それでも母は、やりたいことを思いきりやって、人生を謳歌しています。私はそんな母に負けないよう、笑顔で生きていこうと決めています。自分の笑顔が母の笑顔に繋がるのだと、母が教えてくれたからです。そしてまたその笑顔が、誰かの笑顔に繋がっていくことを信じています。
脇田 伸 さん
母が入院し「がん」と告知された日、それは家族にとっては、とても長い1日となりました。急遽、家族と親戚が集まり、入院中の母への治療方法や手術日程、家族看護の方法など、今後どのように対応していくかの話し合いがありました。
騒然とした家族の話し合いでは、今後の母親に対する治療の話だけではなく、母親のこれまでの食生活や生活習慣の話題にも広がっていきました。話し合いが進むにつれて、話題の中心は、がん細胞に対する怒りや恨みの話題になっていったのでした。
その時でした。90歳を迎えた父が小さな声でゆっくりと話を始めました。
「母さんの体の中にあるがん細胞も、私が大好きな母さんの体の一部。・・・母さんと二人で、残されたわずかな時間を「がん」とともに生きていければそれで幸せだよ。」と言いながら、家族の張り詰めた空気を切り裂くように、ゆっくりと、ゆっくりと両手を合わせ、無言のまま祈りはじめました。
その父の言葉と姿は、これまでの騒然とした家族の話し合いに、深い沈黙をもたらしました。
「がんとともに生きる」という父の言葉には、力強く癌と立ち向かう治療への決意ではなく、母とともに生きた二人の幸せな人生に感謝する気持ちに溢れていました。
人間の命には限りがあり、永遠の命はありません。しかし「がん」を恨み、悔やむ日々を送るより、愛する人の病気までを受け入れ、生きる時間を大切に思える。そんな人生を送りたいと思います。
児玉 秀俊 さん
この写真は、長野にある高峰高原での写真になります。雲海が見られるということで行ったところなのですが、雲海が足元まで来て、雄大な雲海を見ることができていました。朝日が出るころ雲海の中に入ったら光芒が見えるのでは?ということで森の中を少し下ってみたところ、思った通りに光芒が現れていました。
私は今年で膵臓癌と診断されてから5年目を迎えられることになりました。当時はすい臓ってどこ?くらい全く知識がなかったのですが、調べれば調べるほど恐ろしさがわかり、心も体もボロボロで行き場がなくなってきていました。
幸いにして外科手術ができ希望の光が射してきたのですが、術後も併発症で年に数回、入退院を繰り返してきております。術後もよくないといわれるすい臓がん、油断せず、でもお気楽にという合言葉を信条にして、なんとか再発をすることもなく、5年目に突入することができました。
5年目という事で、細々ながらまっすぐ前を向いて生きている!という今の私の状態を写真で表現してみようと思い、近くの高原へ足を向けていました。雲海、朝霧がよくでるところなので、光芒を期待していくのですが、なかなか遭遇できず、3度通ってようやく出会えることができました。3度目の正直で遭遇したのが虫食いされてボロボロの葉を持つツル性の植物。それが光芒の中心に向かって細いのですがまっすぐに伸びていく姿を発見しました。
まさに、これだ!!自分の姿を見ているような、そんな気がしました。
光が降り注ぎ、そこに向かって貧弱だけどもまっすぐ上を向いて伸びていく姿に感動し、逆に私もまたこの姿にまっすぐ生きろ!と励まされているようでした。
あともう少しで、5年!ストレスをためないで油断しないようまっすぐ前を向いていく気持ちを持って生きていこうと思いました。
波多野 清 さん
2006年に妻が癌で亡くなり8年後、今度は自分が癌の洗礼を受けてしまった。癌の恐怖を感じてはいたものの、まさか自分が癌とはと言うのが正直な気持ちだった。
その亡き妻の支えなのだろうか。自分も医師から告げられても不思議と冷静だった。看護師が家族に連絡してくださると言ったが、自分で連絡したほどで。
今はおかげさまで元気に暮らしているが、周りの人たち、特に家族の支えのおかげと日々感謝している。そして、50年以上続けている趣味の写真。これもまた生きる支えになっているような気もする。
何時もこれが最後と思いつつも、今年失敗したら来年こそはと。こんな複雑な、矛盾した状態なのだが周りの人たちは元気な姿に安心しているようだ?
最近は「あさぎまだら」に興味を持っている。春から夏の間は標高の高い山地で暮らし、秋になると暖かい南に移動する。
その距離は実に2000キロ以上と言う、気の遠くなるほどの距離を移動している個体もある。九州から奄美、沖縄、さらに八重山から台湾にまで海を越えて飛んで行く。そして春になると逆のコースで北上し、北海道で見つかった個体もある。
渡りには様々な困難があり、途中で命を落とすものも多いそうだが、ある日、羽がボロボロになった蝶を見つけた。過酷な旅で精根尽きそうだが懸命に生きている姿に感動し、自分も勇気を与えられたような気がした。
この蝶を見て、自分も周りの人たちに感謝しながら精一杯生きていきたいと・・・。
前田 美智子 さん
「わたし、ここなら一日中いられる。」鴨川のほとり。彼女は気持ちよさそうに目を細めている。すい臓がんだった。私達は川沿いにレジャーシートを広げ、京都で大人気というパンをほお張りながら、お喋りを楽しんでいた。
難治の小児がんと診断された息子を連れ、セカンドオピニオンを受けるためこの地を訪れた我が家と、このピクニックを計画してくれた彼女も、男の子のお母さんだ。母としてやりたいことをして過ごしたい。命の時間と向き合い続け、厳しい副作用にも耐え続けた彼女は、自らの意思で最後の抗がん剤を終え、痛み止めを使いながら毎日を送っていた。髪の毛が伸びるのが楽しみ、お洒落好きな彼女はそう言い、リュックから一眼レフカメラを取り出すと私達にレンズを向けた。家族を撮るのが好き、と何枚もシャッターを切った。チューして!と乗せられた。
心とお腹を満たした私は病院で落ち着いて医師とコミュニケーションをとることができた。希望を求め、はるばる訪れた一家が、実は陽気なピクニックの帰りだなんて、医師は思いもしなかったはず。
あの日から半年が過ぎ、彼女は亡くなった。息子の付き添いで葬儀に参列は叶わなかったが、後日、友人と自宅に伺った。自分で選んだという遺影。これ以上ない笑顔とかっこいい佇まいにどこまでも彼女の意思をみた。同時に悲しみが一気に押し寄せた。私は、苦しみや不安に寄り添えていたろうか。いい友人だったろうか。もっと笑い合いたかった。
夜、家に帰ると一通の手紙が届いていた。見覚えのある字に思いがこみあげる。「たくさん、たくさん愛を注いでくれてありがとう。」そこには残される人の心にも寄り添い言葉を綴る、彼女の優しさと強さがあった。生きるって本当に楽じゃない。でも「生きることって、時に、本当に素晴らしい瞬間が訪れるときがあるから。」私はその言葉を信じて生きる。きっとまた出会える。写真のような瞬間に。
野城 郁郎 さん
また転けた、、、、、、さぁ、起き上がるぞ!
2012年治療が終了し、再発なく5年以上、過ごせていた。しかし、6年目、再発が見つかった。
「なんで、今!」という気持ちと、なんとも言えない、どんよりした気分でいっぱいになった。
ある時、妻にこう話した。「なんで、俺は、何度も試練を与えられるんだろう?」と、そして、妻は言う。「試練を乗り越えられる人に、試練が与えられるんだよ」と、
試練を乗り越える力。また、立ち上がる力。それを、私が本当に備えているのは疑わしいが、妻の言葉が私には大きな力となった。
しかし、6年ぶりの抗がん剤治療は、やはりつらい。
「6年前の治療の時はこんなに辛かっただろうか」過去の記憶をたどる。
しかし、過ぎ去った経験の辛さは、もう忘れている。そう、乗り越えてしまえば、その辛さは、過去となり忘れてしまうのだろう。
そして、こんなことを思い出した。6年前、私の気力を支えたのは、「普通の暮らしに戻ること」「夢中になれることを取り戻すこと」であった。
朝、希望に満ちて起きる。一日、一生懸命に仕事する、そして、夜、ゆっくりと休むこと。
こんな、当たり前の生活を、再び取り戻したい。こんな希望を胸に「七転び八起き」である。
内藤 三枝子 さん
健康には自信があった私が、なにげなく触った胸にしこりを見つけ、検査した結果は乳がんでした。八年前のことです。医師に初期なので手術で治ると言われました。さっさと手術して、また今までの生活に戻ろうと考えていました。ところが術後、再発防止のための抗がん剤治療をすすめられた時はショックでした。最初の治療から十日後に脱毛が始まり、覚悟はしていたものの、まとまって毛が抜けて行く姿に落ち込みました。そんな私を嫁いでいる娘が心配して、孫を連れて来てくれました。孫には「いつも元気なばあちゃん」でいたかったので、病気のことは内緒にしておきました。三才の男孫は、なんでも良く気がつくところがあるので、私はできるだけ笑顔をつくり、毛のない頭にニット帽をかぶって、顔色の悪さは化粧でカバーしました。孫は何も気づいた様子も見せず、いつも通りに私と遊んでいました。娘もその様子を、「何も言わないのは変だね。」と言っていました。ある日、孫が「ばあちゃん、公園へ行こう。」と言うので、こっそり外出用のカツラをつけ、さらに帽子をかぶって近くの公園へ連れて行きました。薬の副作用で体調は良くなかったのだけど、孫のためだったら元気が出て、病気のことも一時忘れることができました。大きなスベリ台で孫を抱えて滑ろうとした時のことでした。風が強く吹き、私の帽子が飛ばされそうになりました。その時でした。孫がとっさに、「ばあちゃん、カツラぼうしがとんじゃうよ!」と言ったのでした。うまく隠していたつもりが、孫はちゃんとわかっていたのでした。カツラと帽子が飛ばされたらたいへんなことになると心配したのでしょう。それまで何も聞かなかったのは、孫のやさしさだったのでしょう。それにしても「カツラ帽子」とはなんてかわいいネーミング。これからも孫の成長をずっと見ていたいし、成人してお嫁さんをもらうまで、長生きしたいと夢はどんどん広がって行きます。
養田 公美 さん
私のもとに孫が誕生したのは今から二十年前のこと。初孫とあって、親戚はみな大喜びをして、頬ずりをしたり、抱っこしたりして、そのモテぶりは相当なものでした。
その宝物のような孫に病気が見つかったのは、生後3ヶ月の時のことです。小児がんでした。
病気が見つかってからはうちに遊びに来ることもなくなり、孫の入院生活が始まりました。腫瘍が見つかった腎臓の切除手術から始まり、抗がん剤治療を繰り返す過酷な日々。それでも孫は、お見舞いに来た私たちにいつでもニコニコとかわいらしい笑顔を見せてくれました。そんな孫のために私ができることと言ったら、子守唄の代わりに「痛いの、痛いの、飛んでいけ!」と、孫の頭をなでてやることくらいでした。
そんなある日のこと。抗がん剤治療の副作用でハア、ハアと苦しそうな息をしていたかと思うと、突然、私の目の前で歯を食いしばりはじめたのです。その瞬間、私はとっさに自分の左手を孫の口の中に突っ込んでいました。何年も前に看護師をしている友人から「引きつけをおこしたときは、舌を切らないように気をつけないといけないのよ。」と聞いたのを思い出したのかもしれません。
孫が落ち着いたから左手を見てみると、生えたてのかわいらしい二本の歯の跡が私の左手に深く刻まれていました。赤くにじんだ左手を見ながら「こんなに苦しいんだね。」と思うと涙が止まりませんでした。
現在72歳になる私の左手には、今でもはっきりと孫の頑張った跡が遺っています。そして、その歯型が私にいつでも「生きることの大切さ」を教えてくれます。500日という短い人生を懸命に生き、たくさんの想い出を遺してくれた孫が、私にとって誇りです。